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多摩市あれこれ

多摩市の歴史

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 縄文時代

縄文時代の多摩市は、常緑の木々が繁茂する照葉樹林帯で、縄文人の生活の舞台となっており、多くの遺跡が発見されています。この頃の人々は、狩猟・漁撈・採集で生活し、遺跡からは当時の生活道具である土器・石器が数多く出土しています。また、古墳時代後半には、勢力の強い地方豪族が一般農民を支配し、水稲耕作が営まれていたと考えられています。

 奈良時代・平安時代

奈良時代の遺跡とされる東寺方遺跡では、竪穴住居や、多くの土器や鎌・刀子・鋤が発見されています。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武蔵国では、武蔵七党と称された武士団が形成されました。多摩市は、このうち西党の勢力下にあったとされています。

 鎌倉時代

鎌倉に幕府が開かれると、諸国と鎌倉を結ぶ街道筋が発達し、関所が設けられるなど、大いに賑わいました。また、鎌倉時代末期には、後醍醐天皇により北条打倒の命が出され、元弘3年(1333年)に新田義貞が挙兵し、小手指原で鎌倉軍と戦い、勝利を収めました。

 戦国時代

戦国時代の多摩市地方は、後北条氏の支配下となりました。また、江戸時代には、旧8ヶ村において、代官や籏本の支配のもと、村役人が日常の行政を司っていました。延享3年(1746年)に関戸村に生まれた相沢五流は、狩野派の流れをくんだ絵を描き、造園などにも奇才を示しました。また、息子の伴主(ともぬし)も父と同様の才能があり、挿花においては允中(いんちゅう)流という一派を創始しました。

 明治・大正時代

多摩市は明治元年(1867年)に韮山県と品川県に分属しましたが、同年末には、神奈川県に所属することになりました。
明治22年(1889年)の町村制の施行により、旧8ヶ村と2つの飛び地が合併して多摩市村が誕生しました。その後、明治26年(1893年)の東京府における水利問題などから、三多摩市地方が神奈川県から東京府に編成され、これにより多摩市村も東京府南多摩市郡に所属することになりました。大正14年(1925年)には、玉南電鉄府中~東八王子(現在の京王八王子)間が開通し、関戸駅(現在の聖蹟桜ヶ丘駅)もできました。昭和5年(1930年)には、「多摩市聖蹟記念館」が建設され、手軽なハイキング地として賑わいました。

 昭和時代

昭和30年代後半に入ると、市内各所で住宅開発が始まりましたが、昭和35年(1960年)に始まった京王帝都電鉄株式会社による、桜ヶ丘地区の大規模な宅地造成によって、都市化の波の中に足を踏み出して行くことになりました。そして、昭和39年(1964年)に町制を施行し、多摩市町となりました。さらに、翌年、新住宅市街地開発法によるニュータウン建設区域の計画決定がなされ、多摩市町の約6割がそこに含まれることになりました。

 平成時代

現在の多摩ニュータウンの入居が始まる昭和46年まで、多摩市の 前身である多摩町は農村の面影を残す人口3万人あまりの静かな田園地帯でした。戦後、首都圏中心部への人口集中と深刻な住宅難に加えて、戦前から鉄道で結ばれていたという好条件も重なり、現在の聖蹟桜ヶ丘駅周辺地域を中心に、都心への通勤者の居住 地として多摩町が注目されるようになりました。
その後、市制が施行された昭和46年以降、市の南部地域を中心に多摩ニュータウンが形成され、全国から集まった多くの人々が、様々な価値観を共有しながら「新しいまち」づくりを進めてきました。

(多摩市資料提供)